瀬戸焼
瀬戸焼は、愛知県瀬戸市とその周辺で生産される陶磁器。
元々は平安時代の猿投(現愛知県豊田市)にあった灰釉陶器の須恵器を作る猿投窯(さなげよう)が原点だと考えられている。が、猿投窯は平安末期に衰退した。
瀬戸焼と呼ばれるものは鎌倉時代に加藤四郎左衛門(加藤景正・加藤四郎景正 略称は藤四郎)が、開窯したとされる。貞応2年(1223年)、中国(南宋)に渡った藤四郎は帰国後陶器に向く土を探して全国を放浪し、安貞2年(1228年)、尾張国の瀬戸で窯を開いたと云う。日本の陶器に施釉技法が現れ始める時期と重なっています。
黄瀬戸・瀬戸黒・志野・織部などの茶器が茶の湯の隆盛に伴って多く焼かれ、日用雑器も作られるようになる。
戦国期に入ると瀬戸の陶工たちは戦乱で各地に逃れ、瀬戸の窯は一事衰退してしまいます。
俗に云う【瀬戸山離散】
藤四郎の子孫たちも美濃国(岐阜県多治見市、土岐市、可児市界隈)に移住。これが現在「美濃焼」でも黄瀬戸・瀬戸黒・志野・織部が焼かれている理由のひとつ。
「瀬戸」と「古瀬戸」
室町時代末頃まで(瀬戸山離散で美濃などに拠点を移す以前)の瀬戸物を「古瀬戸」と呼び、それ以降の瀬戸物を「瀬戸」と呼びます。
しかし織田信長は瀬戸にも特別な保護政策を行って離散した窯屋を呼び戻し、徐々に陶工も戻りはじめた。江戸期に入り安定した時代をむかえるが、この時既に世は有田の伊万里焼全盛で、瀬戸焼は市場を奪われていた。
瀬戸焼存亡の危機を救ったのはその磁器であった。
文化年間(1804年 ~1818年)加藤民吉親子が有田から染付磁器の製法を伝えたことから瀬戸でも磁器製作が始まり、瀬戸物は息を吹きかえす。
明治期には西洋の作陶技術も積極的に導入し、ありとあらゆる分野の陶磁器を幅広く手がけて今日に至る。
現在、藤四郎は陶祖として瀬戸の神社に祀られている。
また、加藤民吉も磁祖として同じく祀られている。
瀬戸焼の特徴は「オールマイティ」でしょうね。
およそ陶磁器と名の付くものなら何でもあります。
瀬戸市に行くと陶器は「本業焼」、磁器は「新製焼」と呼ばれて、街の人の多くがセラミック業界と関係する仕事だとか。この事から考えて、瀬戸焼は「本業焼き」だという気がします。
信楽や唐津のように一目でそれと分かる特徴はないが、それがある意味で「本業」なんでしょう。「伝工」の道ではなく「仕事」としての焼物を選んだのです。だからこそ「セトモノ」という言葉は焼物の代名詞になったのかも知れません。
ともかく、日本の器を支え続けてきた瀬戸に感謝するとともに、これからも日本陶磁器の核として頑張って頂きたいものです。
黄瀬戸
何とも言えない枯れた風味。
艶はあるが寂しげな深い山柿色。
かと思えばツヤのない渋紙のような茫漠。
黄瀬戸の器肌は見飽きることがありません。
黄瀬戸の魅力を【千瓢】さんのページで御覧ください。
瀬戸黒
浜田純理作/瀬戸黒抹茶碗 [織部の器/千瓢/瀬戸黒の特色である溶岩が溶けたような凹凸の「かいらぎ」。堂々と仕上げた力強い伝統の瀬戸黒茶碗です。]